スピード:

アンストッパブル

伝説のル・マン24時間レースへの出場回数でアニー=シャルロット・ヴァーニーに敵う女性などいない。正真正銘のル・マンの女王だ。パリ・ダカールラリーにも10回出場した。現在フランス南西部に住むこのクールな女性を訪れた。

   

スニーカーからヘルメットまでスポーティに:

スニーカーからヘルメットまでスポーティに:

80歳を過ぎたというのにアニー=シャルロット・ヴァーニーは未来へのエネルギーに満ち溢れている。そんな彼女がクリストフォーラスのために過去へタイムトリップをしてくれた。

「自分のやりたいことは基本的にやってきました」とビアリッツ近郊のテラスハウスに座ってル・マンの女王、アニー=シャルロット・ヴァーニーが言う。水色がかったメガネをかけた81歳の彼女は、まるで、自分の人生で達成してきたものの凄さに自分でもちょっと驚いているような様子だ。

この言葉を漏らす前に、彼女はレーシングドライバーになった経緯を語っていた。それは1947年、ル・マンの主催者であるオートモビルクラブ・ド・ルエスト(ACO)の副会長だった父ジャン=ルイ・フランソワ・ヴァーニーが、地元で開かれていた24時間レースに6歳になる彼女を連れて行ったときのことだ。幼いアニー=シャルロットは父親に「私いつかあそこで走る」と言ったそうだ。彼女の父親は「ウイ、ウイ」と娘に優しく相槌を打ってくれたが、本気だとはもちろん思っていなかった。数年後、アニー=シャルロットがファッションショーでモデルを指差し「いつか私もあれをやる」と言ったときの母ヨハンナの反応も同じようなものだった。「そうね」と。両親とも二人娘の末っ子の頑固さを理解していなかったようだ。「やるって言ったら、やる」とアニー=シャルロット・ヴァーニーは言う。

『自分のやりたいことは基本的にやってきましたね』

アニー=シャルロット・ヴァーニー

彼女は、ひとたび何かを心に決めると躊躇うことなく前進していく女性だ。21歳で家を出てモデル学校に通い、すぐにロレアルやエルメスといったブランドのモデルを務めるようになった。それから4年間旅をして、彼女は世界中のキャットウォークを歩いた。そしてそのキャリアの後、もう一つの夢を叶えようと、ル・マンにあるレーシングスクールL’école de pilotage Bugattiに入学した。同時に入学したのは149名、うち、女性はアニー=シャルロットだけだった。しかも進級していけるのはベスト50だけ。ライバルの同級生たちは口を揃えて「美人は得だよな」とか、「コネがあるからだ」と言った。父親がル・マンで伝説的な存在だっただけではなく、祖父、ルイ・ヴァーニーは1923年にこのル・マンのレースを創設したひとりでもある。アニー=シャルロットは、9位を獲得し、卒業時にはシトロエンが彼女を選んだ。1972年には、シングルシーターのレーシングカーに乗り込み、シトロエンMEPで1シーズンを過ごした。

彼女はレーサーのキャリアに加え、両親が経営する運送会社でも働いていたし1970年には3人の子供のうちの最初の息子も出産していた。でもレースは続けた。

デビュー

1974年、スポンサーであるBPがル・マンという大きなチャンスを彼女に与えた。しかもポルシェ911カレラRSRで。彼女の両親はそのことを新聞で知ったという。いつも冷静な父親も、心臓発作を起こしそうになるほど驚き、レース直前に「速すぎるって感じたらとにかく車を停めろ!」と彼女に懇願した。アニー=シャーロットは茶目っ気たっぷりにこう答えた。「もちろんよ、パパ。ユノディエール(Ligne Droite des Hunaudières)の直線コースが終わる所でウィンカーを出しておしまいにするわ」。

そんな彼女もレーシングカーが立ち並ぶスターティンググリッドでは気が高ぶったようだ。最初の2、3周の間「私はここで何をしているのだろう」と自問を繰り返し、ある瞬間にリズムに乗り始めた。幸福感に包まれる。朝の4時、冷たい空気、完璧に走る車。「あの夜、あの車はどんな男よりも私を幸せにしてくれたわ」。

今日の彼女にレースの魅力は何だったのですか、と尋ねると、「競争」という言葉が返ってきた。「とにかく勝ちたかった」。怖いと思った瞬間もあったのでは?「運転しているときは、集中しすぎて感覚が麻痺していたの」。

自信たっぷりの眼差し:

自信たっぷりの眼差し:

キャリアをスタートした時、アニー=シャルロット・ヴァーニーはレーサーになれたのはその美貌やコネのおかげだと言われた。そんな妬みを跳ね返していったのはレースでの彼女の本当の実力だ。1978年、彼女は、市販車でのフランス選手権優勝者のメダルを獲得した。

今の彼女は日当たりの良いリビングルームに座っている。ソファの隣にはカリブ海の漁師の絵が掛けられ、ダイニングテーブルの隣にはル・マンでの彼女の写真が飾られている。テーブルの上には父親がトロフィーを授与している瞬間を捉えた写真や、ひげをたくわえた祖父のルイが写った写真が広げられている。1945年にこの世を去った祖父が孫娘のキャリアを見ることはなかった。しかし、彼女の派手な性格は祖父そのものだそうだ。

彼女が集めたトロフィーは棚に飾られている。ヴァーニーのル・マンでの活躍には、1978年のポルシェ911カレラRSRでのGTクラス優勝、1981年のポルシェ935 K3での総合6位入賞など、目を見張るものがある。1981年のレースは自己ベスト時速358kmを樹立したレースでもある。ル・マン24時間レースには10回出場した。女性ドライバーとしてのこの出場回数の記録はいまだに破られていない。そのうち9回は911カレラRSR、935 K3、カレラRS、934、とポルシェのステアリングを握っていた。

「ポルシェはポルシェ」と尊敬の念を込めて言う。ル・マンやデイトナのようなレースで、彼女にとってこれ以上優れた、信頼できるマシンはなかった。それが今日、彼女がポルシェを所有していない理由のひとつだ。「運転免許証を取り上げられたら困るから」とにっこり笑みを浮かべる。速度制限が厳しい国、フランスに住んでいるのだから仕方ない。

スピード:

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1981年、ル・マンの直線コースでアニー=シャルロット・ヴァーニーが自己最高記録358km/hを樹立したポルシェ935 K3。

砂漠で車軸を破損

さあ、車に乗りこもう。ヴァーニーは昼食のためにゴルフクラブのテーブルを予約してくれているのだから。走行中にシートベルトをするのは、走り出して車からの警告音が大きくなってから。スタートで時間をロスしない、骨の髄までレーサーだ。

ゴルフクラブのテラスで、緑色のゴルフコースと青い大西洋を眺めながら、彼女はパリ・ダカールでの冒険について語る。この伝説の砂漠ラリーには10回出場したし、その他のアフリカのラリーにもさまざまな車両で参戦した。これらのレースにポルシェで参加したことはない。1982年のダカール初参戦では、彼女の横に当時イギリス首相の息子、マーク・サッチャーというちょっとした有名人のコ・ドライバーが乗っていた。

ついていないレースだった。数日後、アルジェリアのサハラ砂漠の真ん中で彼女の乗っていた車のリアアクスルが壊れてしまう。そして、それよりも運が悪かったのは、コースから外れてしまっていたことだ。サハラ砂漠の気温は夜には氷点下5度まで下がり、日中は40度近くまで上昇する。赤い砂といくつかの茂みのほかに周りには何もない。誰かが見つけてくれるのだろうか?ヴァーニー、サッチャー、そして整備士には、1日分の飲食物しか配給されていなかった。

捜索隊が彼らを探す中、3人は最後の一口の水を飲んだ。その後、車のラジエーター用の水のタンクを空になるまで飲み干し、アニー=シャルロットにいたっては自分の香水まで飲んだという。発見されるまで6日間かかった。「あと2日見つけてもらえなかったら、絶対死んでいたと思う」。

『あと2日見つけてもらえなかったら、絶対死んでいたと思う』。

アニー=シャルロット・ヴァーニー

それでもこのラリーにはその後9回参加した。こんなアクシデントさえも彼女を止めることはできなかった。1973年にコートジボワールで開催されたバンダマ・ラリーでは、多数の骨折を負い、かろうじて命だけは助かった。1990年のパリ・ダカール・ラリーでは、7回も横転し、車は「クレープのようにぺったんこ」になってしまった。レースをしてれば、そういうことも起こるのよ、と。

再びフランスへ:

再びフランスへ:

長年をカリブ海とアメリカのフロリダ州で過ごした後、現在ル・マンの女王はフランス、ビアリッツ近郊に住んでいる。

彼女の最後のレースは1992年のことだ。パリからケープタウンへの旅路で、彼女は人生で2度目になるこんな問いを自分に投げかけた。「私はここで何をしているのだろう」。いい答えが返ってこなかった。潮時だ。その後彼女はドミニカ共和国で10年を過ごし、フロリダに移り住んだ。現在は再びフランスに住み、もちろん毎年ル・マンに足を運んでいる。

いまだにやりたいことをやり続けている女性だ。週に3回はゴルフをし、ピラティスのエクササイズに励み、事業もしている。気が向いたときに車に乗ってスペインに行き、友人や息子、孫を訪ねる。固い握手で別れを告げているときに、ル・マンの女王がこんな言葉を漏らす。「こんなにいい人生はないでしょう」。午後4時前、彼女の地元ではいつもレースが始まる時間だ。

Andrea Walter
Andrea Walter