Lap Time: 2:00.800
1960 年代半ば、日本は自動車産業における新興国として注目を集めていた。1964 年には東京オリンピックが開催され、1966 年、東京から南西に約 120km 離れた静岡県東部に、国際レースサーキット “富士スピードウェイ” が誕生した。
世界有数の高速サーキットとして有名な富士スピードウェイでは、1.5km にもおよぶ長いスト レートに続き、バンク角 30 度の第一コーナーが待ち受ける。この波打つハイスピード・コーナーを全速力で駆け抜ける命知らずのレーシングドライバーの中には、若かりし生沢徹の姿もあった。画家の息子として東京で生を受け、類まれなる才能を発揮していた彼は、日本人として初めてイギリス F3 選手権へ参戦。海外活動資金を調達すべく、1967 年 5 月に富士スピードウェイで開催される日本グランプリに参戦し、優勝賞金 175 万円(当時約 5000 米ドル)の獲得を 狙っていた。生沢は当時、日本におけるポルシェの輸入代理店だったミツワ自動車から 906 カレラ 6 をレンタルし、2 リッター 6 気筒エンジンを搭載したホモロゲーション・モデルで 2 分を切るコース・レコードを叩き出し、見事ポールポジションを獲得したのであった。
本戦では、生沢と同じくポルシェ 906 を駆る酒井正とのデッドヒートが繰り広げられた。豊かな才能に恵まれ、大きな野心を抱いていた両者は、当時 24 歳という若さで日本を代表する希望の星と見られていた。スタートに関して言えば酒井の方が優位かと思われたが、すぐさま オーバーテイクに成功した生沢が、60 周で争われるレースのうち 18 周目までリードする展開が続く。しかし生沢は S 字コーナーで 3 速ではなく 1 速にシフトするという致命的なシフトミスを犯してしまう。その結果、酒井がトップに立ち、生沢は給油のためにピットへの帰還を余儀なくされる。ライバルとは異なるレース戦略をとっていた酒井は、慎重なドライビングスタイルで 360km の長丁場を無給油で走破するつもりでいた。逆に生沢は燃料残量を気にすることなくアタックを続け、34 周目に再び酒井をオーバーテイク。しかし、その 4 周後にはライバル酒井が再びトップに立つ。魔の 30 度バンクにさしかかったところで猛烈な勢いで反撃に出た生沢は、イン側を狙うフェイントを見せると同時にコーナーの頂上から酒井を一気に抜き去り、見事 2:00.800 のラップレコードを叩き出したのであった。
酒井はその直後、250km/h でタイヤがバーストし、マシーンが横転して大破したものの、奇跡的に軽症で救出されている。華麗なパフォーマンスで見事に賞金を獲得した生沢は、翌 1968 年シーズン、ワークス・ティームの助っ人ドライバーとしてポルシェに招かれることになる。
1967 年 5 月 3 日
日本グランプリ
富士スピードウェイ
コース全長 5.999 キロ
生沢徹 / ポルシェ 906 カレラ 6